厚真町の再生

前向きになれたのは 多くの支援があったから

キーワード:営農支援復興災害胆振東部地震農業支援
前向きになれたのは多くの支援があったから
「震災直後の1カ月は特につらかった」という佐藤さん。
「問題が山積みで、目の前のことを一つずつやるだけで必死だった」という浅野さん。
みんなで助け合いながら被災直後の混乱を乗り越えました。

 

JAとまこまい広域 厚真支所 支所長 浅野 真人さん(左)
JAとまこまい広域 参与 佐藤 美奈子さん(右)

 

住居や農地にどのようなリスクがあるか確認しておく」

 

この記事は2023年8月1日に掲載された情報となります。

 

2018年9月6日の午前3時に発生した胆振東部地震。厚真町では北海道で初めてとなる震度7を観測しました。生産者やJAは被害にどう立ち向かい、どう乗り越えたのでしょう。復興の歩みを聞きました。

 

北海道で初めての震度7

あの日、厚真町の佐藤美奈子さんは「すごい揺れと音で目が覚めた」と言います。ベッドから起き上がろうとしましたが、立てないくらいの揺れでした。

「大きな音がして、今思えば土砂が崩れていたんでしょう。停電していたので身動きがとれませんでした」

明るくなって分かったのは裏山の土砂が崩れ、家の両側に落し寄せていること。佐藤さんの家は無事でしたが、近所の親戚は家ごと流されて亡くなったそうです。

電気も水も使えないため佐藤さんは夫と息子と義父母で避難所へ。道路も寸断されていたので、農道をつたうようにして市街地へ向かいました。

その年、自宅前の田んぼは圃場整備中で作付けできず、離れた圃場で少しだけ栽培していましたが、そこにも土砂が入って収穫不能。別の場所に植えていた酒米だけはなんとか収穫しました。

J‌Aの施設も農業用倉庫が損壊し、馬鈴しょや小麦のコンテナが倒れるなど大きな被害を受けました。J‌Aとまこまい広域の浅野支所長は、当時を振り返ってこう言います。

「米は収穫間近だったけど、道路の復旧工事を優先させるには、収穫や運搬が難しいと。結局、山側の地域は出荷できなかった。あれはせつなかった。ちゃんと育った稲を刈れないんだから」

 

旧住宅周辺
裏山の林が地震で崩落。倒れた木々や土砂が住宅や道路をのみ込みました。
写真中央が佐藤さんの住んでいた自宅。いま斜面はコンクリートで補強されています。

 

来年は作付けできるだろうか

被害の全容を把握するのにも時間がかかりました。確認のため、軒回りたくても、道路は寸断され、工事のために規制がかかっていたからです。

「そんな状況だから、互いに顔を合わせられた時は『ああ、無事で良かった』と。亡くなった方も多く、つらい中ではあったけど、ひとまずホッとした」と浅野支所長。佐藤さんの夫も「来年、作付けできるんだろうか」と不安を漏らしていましたが、半年後には仮設住宅から通って苗の準備をし、無事に田植えをやり遂げました。

「前向きになれたのは、国や道や町からいろんな支援があると分かったからです。導水管もダメになっていましたが、皆さんが『導水管を使わずなんとか水を通すから』と言ってくれて。うちはコンバインが土砂で流されたんですが、それも貸してもらえるというんで、今年も米をつくろうという気になれました」

 

5年経ってもまだ復興の途中

とはいえ全てが元通りではありません。佐藤さん家は避難所で2カ月、仮設住宅で2年暮らした後、中古住宅を購入して田んぼに通っています。その間、道路工事のため仮道路として農地の部を提供。本道路が完成して農地が戻ってきたのは去年でした。

「以前は田植えを終えてから、ほうれんそうも作っていましたが、そちらはまだ再開できないでいます」

というのも、震災後、井戸が枯れてしまい、水の確保ができていないからです。「水みちが変わった」「圃場に高低差ができた」など、地震による影響を訴える声がまだ続いています。

「昨日も震度5の地震があってヒヤッとしました。やっぱり自分の住んでいる所がどんな土地なのかは、知っておいたほうがいいと思いますね。あとは家族の連絡方法を決めておくこと。みんなが家にいる時間ならいいけど、田んぼとか離れた場所なら心配です」と佐藤さん。参考になれば、とつらい経験を聞かせてくださいました。